わたしはしあわせ

ずっとがんばってきたけど…もうや~めた☆自分のこころに耳を傾ける日々の記録

運動会くらい

2学期がはじまるとすぐあるのが、運動会の練習。

これは学校がイヤな子にとっては、2学期そもそもが高い山なのに、

追い打ちをかけるような生き地獄だなーーーと思った。

 

団体演技は練習しなければいけない。

      ↓

 学校に行かなればいけない。

      ↓

   しんどくなる。

      ↓

     休む

      ↓

  練習が遅れてついていけない。

      ↓

  さらに行きたくなくなる。

 

 

これで、考えただけで、うーーーってなるのに、

更にそこに大人の長年の価値観が追い打ちをかける。

 

運動会くらい。

 

運動会はいい思い出になる。

 

みんなでがんばったことは達成感につながる。

 

 

そう思う子もいるだろうけれど、

そう思わない子もいる。

 

「学校は行きたい、が、

運動会までは自信がなく、

練習があるから、学校には行きたくない。」

 

と、娘が言った。

本当は運動会も出たいのかもしれないけれど、

「出たい」と言えば、出られなかった時に自分が傷つくし、

周りを落胆させるから、本音を言えない状況もある。

(これは「学校に行きたくない」も同じこと)

 

わたしも正直、

去年出られなかったから~

運動会は…彼女のために…

と、思っていた(-_-;)

 

運動会も出られなかった、、、😢

と、子より落胆していた去年のわたしよりはましだけれど。

 

 

で、なんとか…と思ったけれど、

それで追い込むのは違うな…と思った。

まず、できることは…って考えた。

彼女が笑っていられるように…

この大人の価値観の枠を取っ払うことかな~と。

 

 

「学校」=「運動会」…✖(ちがう)

 

 

「学校」と「運動会」を切り離して考えよう。

でないと、

「学校」と思った時に「運動会」もひっついてしまって、

「イヤ!!!」ってなってしまう。

「学校」は、行きたいと思っているのに。

 

それはもったいない。

運動会は出ても、出なくても、あなたが元気ならいい。

出ようと思えば、走るのだけでもいいし、

それでもイヤなら、出なければいい。

どんな選択でもなんでもOK.

 

と、思っていることを伝える。

親の期待に応えたいと思う子どもの優しい気持ちもあると思うから。

わたしの取っ払える枠はここまで。

あとは、彼女に任せる。

 

周りの思惑はさておき…

 

彼女の正直な思いと、行動が=(イコール)になれば、

いいなあ~と思う今日この頃。

 

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月曜日はとてもしんどい

大人でも日曜日の夜になると憂鬱になることがある。

 

娘は、昨晩お腹が痛かったそう。

学校行かないって思ってたのに…

行ってても、行ってなくても、

気になるし、

「行かなきゃあかん。」

って、どこかで思っているのかな~と思いつつ。

 

今朝は、いつも通り起きた娘。

歯磨きをしながら、

「学校行こうかな~」とつぶやく。

 

遅れて、一緒に歩いて登校すると、

学校が見えた辺りで、

 

「やっぱり、モヤモヤするからやめとく。」

 

と、一緒に帰る。

 

家に帰って自分で学校へ電話した娘。

 

「給食から行きます。」

 

すご~く、揺れ動く思い。

月曜日はとてもしんどそう。

いや、日曜日の夜からかな…

 

月曜日を気楽にするためにはどうしたらいいだろう?

学校へ行かないって決めておくこともしてみたけれど、

少ししか効果なかった(-_-;)

 

給食から行ったけれど、

「勉強はする気にならない」、って。

行くだけで精一杯。

 

学校って何なんだろう…?

 

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生きていてほしい

娘は2階の窓に足をかけたことがある。

 

わたしは、薬をいっぱい飲んだことがある。(だいぶ昔)

 

「死のう」と思ったのではなく、

 

ここから出たい…

 

といった気持ち。

あまり記憶がないんだけれど、いつの間にか飲んでいた。

 

娘もそうかもしれない。

 

 

そんなわたしはもう、アラフォー。

さっき、娘が笑いながら、

 

 

「よくそんな生きてるな~11歳でこんなしんどいのに、

 そんなに生きてるなんて考えられへんわ。」

 

( ;∀;)

 

なーんにも、考えてないんだろう、いいなーみたいな (^^;

 

 

9月は子どもの自死が多い。

自分のことも、娘のこともあったから、

何か…。

 

わたしは、死ななくてよかった、と思う。

すぐ、そう思えたわけではない。

しばらく、無…のような、こもるような時があった。

自分が自分じゃないような、

外から自分をみているような。

 

ここから出たい…

 

という願望は、薬を飲むことで達成したんだけれど、

今思うと…

何か…

 

 

そこまでがんばらなくてもよかったんじゃないか?

逃げても、避難しても、道から外れても

よかったんじゃないか?

何を気にしていたんだろう?

 

世間体?

自分のプライド?周囲の評価?

 

とか、なんだよね。きっと。そのためにそこまでがんばった。

 

でも、やりたいことの場所だったら、

ここから出たい、とも思わないだろうと思う。

自分で決めているようで、

自分で決めていない場所、

世間体とか、周囲から良く思われようとすること。人と比べること。

そういう場所、そういうことに価値観を置いていたから、

そういうところには、ゴールはない。

がんばっても、がんばっても、

周囲の評価は、人によって変わるし、時期によっても変わる。

先の見えない道、

がんばり続けても休めない。

自分で自分を苦しめて、

ここから出たい、

に、なったんではないかと思う。

 

わたしはこのことがあったにも関わらず、

ちゃんとここから出ることができなくて、行ったり来たり。

 

そんな時に、娘が、

 

ポーンっと、ここから出た。

 

 

「学校に行きたくない。」

 

 

これ、言えるのは、本当にすごい勇気だと思う。

し、枠を取っ払った考え方だと思う。

それに、行かないことで自分を守りたいという、生きる力がある子だと思う。

学校に行くのが当たり前の今の日本で、これが言える。

自分で考えて、自分で思って、自分で行動する子ども達。

 

すごい…

 

しかない。

言ってくれて、ありがとう。

 

最初は戸惑ったし、世間のレールから外れる~!って

あたふたしたけれど、

先生達なんて、オロオロ😰どころじゃないしね。

 

この「学校へ行きたくない」は、

わたしの枠を取っ払い、やりたいことをやる、自分は自分という生き方を

教えてくれた。

 

 

なかなか周りの大人は気づかないかもしれない。(わたしも遅かった(-_-;))

 

でも、生きていてほしい。

 

わたしが娘に教えられたように、時間はかかるかもしれないけれど、

気づく人が必ずいる。

広い世の中、出てみれば、味方はたくさんいる。

生きているだけで、存在だけで、大きな意味がある。

周囲の人に教えている。

ありのままに生きることのすばらしさを。

 

今もわたしは教えられていて、

Eテレのハナシティとか、ハートネットTVとかで、

話している不登校の子をみると、

 

あー、もうわたし、何やってんだっ(-_-;)

また、流されてるっ。自分、自分、自分の頭で考えるっ!

 

って、元気とやる気をもらえる。

娘にも他の子たちにも、日々、教えられる。

 

「これから、どうする~?」

って予定を聞くと、娘が、

 

 

「生きていくーーー!」(#^.^#)

 

 

と、答えた娘。

質問の趣旨は伝わらなかったけれど、

これを聞いた時はめっちゃうれしかった。

 

娘は、人が怖い。

でも2年経って、いじめのことの詳細を話しだしたり、

将来の目標を具体的に語ったり、書いたり、

笑顔がどんどんステキになっていっている。

 

窓に足をかけた頃とは表情が全く違う。

 

「人を助けたい」って。

 

娘みたいな子たちが大きくなって

みんなで「人を助けたい」という思いを共有して動いたら、

きっとステキな世界になると思う。

わたしも、そのひとりでありたい。

 

みんなでステキな世界にしたいから、楽しいことをしたいから、

生きていてほしい、と思うんや。

 

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生と死のつながり

仕事柄、人の死に立ち会うことが多い。

でも、???・・・

これでいいのか?

ちがうような気がする、といった漠然としたひっかかりがあった。

 

子どもが色々あり追い込まれて、

2階の窓に足をかけていた。

 

このことをきっかけに、

「死」がぐっと身近になった。

どこか他人事だった「死」

他人事ではなく、今、明日、明後日…

いつ訪れてもおかしくない、

生きていることは、当たり前でないことを実感した。

 

そう思うと、

今生きていることが、とてもありがたいことだと感じた。

有難い=有るのが、難しいこと

娘の寝顔をじーっとみていて、

生きていて、この寝顔を見られることが、

とてもとてもありがたいこと、

涙がぽろぽろこぼれて、

胸があつーくなって、

あーーー

生きていることが奇跡だ、と

物とか自然とか、人とか、地球上にあるものすべてから

パワーみたいなものをもらっていることに気づき、

何とも言えない感情になったことがある。

 

 

collateral beauty

 

 

この感情のあとしばらくして観た映画が、これ。

邦題は「素晴らしきかな、人生」。

まさにこれだな、と、観た時にまた味わえた。

世界が変わる、collateral beauty(幸せのおまけ)。

 

普段生活していると、忘れがち。

これを書いていて、わたしも久しぶりに思い出した。

 

そんな体験があり。

仕事では、人の死に立ち会うことがあり、

「老衰」「自然死」のような形の死に前に初めて出会った。

 

何というか、今まで体験したことのない「死」

寝る時間が長くなって、少しずつ食べる量が減ってきて、

水分だけになり、

眠るように訪れる「死」

主観かもしれないけれど、顔がとても穏やか。

 

そこには、

点滴も、モニターも、酸素もない。

日常。

 

 

あ、「死」ってこういうものなんだ。

 

 

この経験から、自然死について興味を持った。

 

飲んだり食べたりできなくなると、

脳内に麻薬様の化学物質が分泌されていい気持ちになり、

脱水により意識レベルが低下して、

うとうと眠りがちになる。

 

人間には、本来は、苦しまず、寿命を終えるシステムがある。

これは衝撃で…(^^;

 

寿命を終えようとしている人に対し、

何かできることはないか?

苦痛を和らげることは?

苦しそうだから、どうにかしたい!

と、思ってするのが医療なんだけれど、

寿命を終えようとする人には、

 

食べ物も、水も、

点滴も、

酸素も、

余計なお世話…ということになる。

 

「死」を身近に感じて、

「死」に直面して、

「死」を考えて。

 

人間ってすごいなーーーと。(簡単だけれど(;'∀')

 

色んなシステムが備わっている。

ではでは…そうすると、

外的な力で無理やり何かをどうこうする必要ってないんじゃないか?

自然に任せれば、

自然にどうにかなるようにできているんだ。

「死」だけではなく、

いろんな起きる出来事のことも。

 

抗わず、

自然に任せて、生きていれば、それでいい。

 

と、

「死」を思ったことで、

「生」にもつながっていった。

 

そういうことか…

 

自然に「死」を迎えること。

それは、自然に生きること。ありのままに生きること。

 

そう意識を変えることで、

平和につながるんじゃないかな~と、壮大なことも妄想している(^^ゞ

 

そう思えると、

仕事をやりたい、

自然「死」が迎えられるよう

わたしにできることがある☆☆☆

と、やりたいこともムクムク出てきた。

 

娘の「死」を考えさせられる出来事。

そのことをきっかけに転職した職場での体験。

 

そして、今がある。

 

つながっているんだなあ…

 

人生に必要なものを準備してくれている

 

これでいい、大丈夫

 

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不安を打ち消す方法

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「またなにかされそうでこわい」

 

 

夜、なかなか眠れないと

黙って紙に書いた娘。

 

それから、前にあったいじめのことを

紙に文章で書き出した。

 

2年経って、

初めて、

詳細をアウトプットした娘。

 

あったことは変えられない。

 

その出来事の視点を変えたり、

対象に焦点を合わさず、自分にフォーカスしたり、

を繰り返してきた。

 

それでも、

出来事が起こった時期になると、

少し、戻ってしまう。

でも、

少し、だった。

 

なんて言っていいか、わからなくて、

何が正解かなんて、ないんだろうけれど…

 

 

大丈夫。

このことで、色んな人と知り合って味方が増えた。

もし何か起こりそうなら、助けてってその味方に言えばいい。

その不安を思っていると、

今がもったいない。

「またなにかされそうでこわい」

という不安は、

どうがんばっても、どうにもできることではない。

お天気を変えるようとがんばっているようなもの。

あなたの力が足りないのでも、がんばりが足りないのでもない。

自分に今、できることを考えよう。

 

というようなことを、

ふざけたり、お笑いっぽく伝えた。

 

ふくれあがる不安。

どうにかしようと考えれば考えるほど、むくむくむく…

 

何を言おうと、

なかなか消えるものでも、そう簡単なものでもないのかもしれない。

 

頭によぎったら、

この不安がどれくらいか数値化して、

いらなさそうなら、

くちゃくちゃに丸めて、

ぽーいっ…とするイメージで

捨てて、

目の前のことを楽しめるといいな~と思う。

わたしも実践中(^^♪

 

話してしばらくして、わたしより先に寝た娘。

彼女は、すごい。

必死に前に進もうとしている。

不器用だけれど、がんばり屋さんで、一生懸命。

彼女は、絶対大丈夫♪

 

笑っていられるように。

あなたが笑っていられるように

どうしたらいいか?考えよう。

 

2学期が近づき、ほんのちょっとの期待と、不安と不安と不安…で、

押しつぶされそうな子ども。

 

そんな彼女が笑った時に、ふと出てきた言葉。

この笑顔を見ていたい、と思ったから。

 

学校へ行く、行かない、はどうでもいい。

…とは言いつつ、

将来なりたいものがある子どもにとって、

勉強は大切だな~と思うし、

居場所も必要だな~と思うし、

学校へ行かなくて、家にひとりで置いておくのも…だし、

でもわたしは働かなければいけないし。

 

ぐるぐるぐる…

 

結構考えて、ぐちゃぐちゃになっていた。

 

本当にしんどそうで消えそうな時は、

物で少しでも一瞬でも娘の気持ちが満たせれば…

と、物や衣服に頼ったことが多々ある。

一時は、喜ぶ♪

彼女自身も、これがあれば変われる!何かできるかも!と淡い期待を抱いたみたい。

でも、

一瞬で、ふきとぶ。

少しのきっかけにはなるかもしれないけれど、

形あるものありき、では、

なにも意味がない。

 

そんなことを、ずいぶんと学んだわたしと娘。

 

それが、始業式の日になって、

行かなかったんだけれど、

靴のことでもめた。

 

どんどん大きくなる足。

次から次に靴を新調しなければならないんだけれど、

それもなかなか難しい。

家にある靴を履いて、って言うわたしに、

「こんなの、あーで、こーでっ!」ってわーーー!!!ってなった。

 

始業式行けないとか、モロモロの気持ちもあったのかもしれない。

わたしも同じように、モロモロの気持ちがあった。

胃も痛かった(-_-;)(思った以上に悩んでいたようす

 

なんか、ここまで来たのに、物とか見てくれのことで

わーわー言ってる娘をみて、

 

 

これ以上、どうしろっていうの?!

 

 

と、こみ上げるものがあり…(多分ずっとためてたんだろうな~)

どうしろ、とも、こうしろ、とも娘は言っていないんだけれど…(^^;

 

涙が出てきて、

こらえようと思えば、こらえられそうだったんだけれど、

そこで頭で冷静に考えた。

 

出していい。

そのままでいい。

我慢しなくていい。

 

よしっ!

出すぞ!!!

 

って感じで爆発した(*'▽')

 

 

あなたが笑っていられるように、できることはする。

あなたがどうしたいか、伝えてくれれば、できることはする。

でも、

できることと、できないことがある。

全部するのがいいことだとも思わない。

みんながしんどくならない範囲で、

生活できる範囲で、

笑って生きていけるように、

どうしたらいいか考えよう。

だから、本音を伝えて欲しい。

 

みたいなこと。

 

 

自分のできる範囲をこえて何かをしようとすると、

絶対にしんどくなる。

「あれだけしてあげたんだからっ!」

って、

「してくれって頼んだ覚えないし。」

みたいな、ことになる。

お互い、イライラ・もやもや(;^_^A

 

だから、

子どもを信じて、

ここまでって線を引いて、

できる範囲で見守っていく。

わたしも、子どもも、笑っていられるように。

 

このことから、彼女は、

口に出したり、書いたりして、

思いを今まで以上に話すようになった。

 

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2学期はじまりのプレッシャー

2学期がもうすぐはじまる…

 

このプレッシャーは、

子どもだけでなく、親にも。

 

昨年の2学期のことが頭をよぎり、

どんどん、じわじわ、追い込まれていくわたし(-_-;)

 

子どもの方も、同じく顔色が良くなくなり、

眠れなくなり、

ちょっとした自傷行為が出てくるように。

少し前から宿題にも手をつけず、

何でか聞くと、

「学校を思い出すから。」

学校の友達とも同じ時期から遊ばなくなっていた。

 

 

視点を変えたい!

 

 

と、思い、動いた。

 

まず、

「始業式に学校へ行く!」

という枠から、取っ払う。

子どもとも相談した。

 

行かなきゃ!と思うから、今が苦しくなる。

行かなくていい、と思えば、今が楽になる。

と、思ったから。

 

フリースクールの予約をとり、

学校にも連絡。

 

するとその日のうちに、先生が家に来た。

 

最初は逃げ回っていた子どもだけど、

なんとか同席。

わたしに隠れていたけれど、

少しずつ出て来て、

最期は笑ってしゃべっていた。

 

先生とは、

一昨年、去年は2学期が色々つらかったこと。

教室に入れなくて、廊下で勉強したり、こっそりのぞいたり。

わたしと校門の前でおいかけっこしたり。

そんな以前はペラペラしゃべれなかったことを、

笑顔で自虐ネタっぽくお話。

子どもが自分から口火をきってくれた。

先生も、先生っぽくなく、ひとりの人間として接してくれた感じで。

 

 

枠を取っ払って、

先生と会って、

それらのおかげか、

翌日の始業式前日は、

子どもはやっと外に出て友達と遊び、よく笑い、よく寝た(#^.^#)

 

うん。なんかこれでええやん♪

 

と、思った。

先のこと考えて、その日一日を暗く生きるのはイヤだ。

その日一日をその瞬間を楽しく生きられるように、

視点を変える、当たり前を変える、枠を取っ払う。

 

で、その日のことは、その日に考えればいい。

 

で…

始業式は…

 

行きませんでした(^_-)-☆

 

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